海外留学は英語上達の近道なのか?2/3
英語がわからなくて、トラブルに・・・!
とにかく、私にとって、英語のリスニングというのは本当に悩みの種でした。
当時、仲の良かったインドネシアやアフリカからのクラスメイト達とモールに買い物に行ったりしても、店員達と楽しそうに歓談している彼等を尻目に、私は会話に全くついていけないことが多く、いつも頭に来てましたね。
それでも、話題を振られると、悲しいことに、とりあえず笑顔を作ってしまうんですけど。
なんででしょうね。学校の文法とか読解の解釈のテストとかは私の方が圧倒的に上だったんですけどね。
また、一度など、夜、クラスメイト達と飲みに出かけて帰ってきたとき、寮のガードマンが険しい顔つきで私達に向かって何かを叫んでいるんですよ。
クラスメイト達は、すぐに彼の言ってる事が理解できたみたいで入り口に向かってすごい勢いで走り始めたんですけどね。
私はといえば、ほろ酔い加減でふらふらしていたこともあり、一人だけ相変わらずヨタヨタと歩いているわけです。
もちろん、ガードマンの話している英語など酔いのせいもあっていつも以上に全くわかりませんしね。
そしたら、彼がダッシュで走り寄って来て、私の腕をつかむとすごい勢いで入り口まで引っ張っていくんですよ。
ものすごい力でね。殺されるかと思いましたよ。言ってる事は全然わかりませんし。
そうやって寮の中まで連れて行かれてもまだ状況が飲み込めていませんでしたが、その場に居合わせた日本人から「寮の駐車場内で発砲事件があり、犯人は薬物中毒でまだ辺りをうろうろしているらしい」と聞かされた時にはさすがに縮み上がりましたね。
酔いなど完全に吹っ飛んでしまいました。
これなどは、いかに私のリスニングが駄目だったかということを表わしているばかりでなく、英語がわからずにアメリカで暮らすことがいかに危険かを皆さんにわかってもらうにも非常に良い例だと思いませんか?
交通事故と遭遇して英語力が伸びた?!
アメリカへ渡り7ヶ月が経っても、私の英語苦戦物語はまだまだ続きます。
カンザスの語学学校で丁度3ターム過ごした後で友人の勧めもあり、ケンタッキー州のレキシントンにある学校に移ったんですね。
そしたら、そこでさらにシリアスな事態に遭遇してしまったんですよ。
なんと、交通事故です。
レキシントンへ移って、学校とアパートの手続きを終えた直後に友人の買ったばかりの新車で買い物に出かけた矢先の出来事でした。
相手はボロボロの巨大クライスラーに乗った16歳のくせに髭もじゃらのとっちゃん坊やで、友人の新車を私もろともスクラップ寸前にする勢いで、ブレーキを踏むこともなく後ろから激しく追突してきたのには驚きましたね。
幸いにして、私の体は大したダメージを受けずに済んだのですが、その事故から後1ヶ月間はまさに「地獄」の日々でした。
なんせ、車の所有者である友人は私以上に英語が下手だったので、自動車保険の請求から加害者(?)の少年の保険会社に対しての代車の交渉、警察の交通事故課へ行っての事故調査書の発行請求などに至るまで全て、まともな日常会話もままならぬ私の英語で行わなくてはならず、それはそれは気の遠くなるような毎日が続きましたね。
この一ヶ月間は、毎日、最低でも数時間は、アメリカ人の保険会社のエージェント、自動車修理工、警察官達相手に、辞書片手に必死の思いでコミュニケーションを取らなくてはならなかったわけですよ。
我ながらよく全て処理できたなって思いますよ。
あのひどい英語力でね。
多分、現在の英語力が当時あれば、3日で全ての処理が終わっていたでしょうね。 この事故を境に、少しだけ私は自分の英語に自信を持ったような気がしますね。本当に少しだけですが。
でも、私は結局、この事故の処理に追われたせいで、出席日数が不足し学校も追われる羽目になってしまったわけですが。
レキシントンという町は事故などはあったものの気に入っていたのでかなり残念でしたね。
こうして、レキシントンを離れなくてはならなくなった私は、今度はコロラド州のデンバーに移りました。まさに放浪の旅ですね。 といっても、ほんとうはそんなかっこのいいものではなく、単に学校を追い出されて、仕方なく動いただけの話ですけど。
ただ、レキシントンでの交通事故の一件以来、英語のリスニングとスピーキングには多少ばかり自信を持ち始めていたのも事実ですね。
「災い転じて福となす」とはまさにこのこと、デンバーに移ってから受験したTOEFLもついに念願の530点を突破できましてね。
それにより、渡米後1年を経てようやく地元の大学に入学を果たすことになるんですから。
でも、この自信が「単なるうぬほれ」であるということに気づくまでにはそれほど時間もかかりませんでしたけど。
念願のアメリカの大学へ学部入学
さて、念願の学部入学を果たした私は、興奮して調子に乗ってしまい、科目を多く履修しすぎてしまいましてね。
いざ、授業が始まってみると、パニックになってしまったんです。
例えば、心理学。
そこそこ、リスニングも聞けるかなって思い始めてきた頃だというのに、教授の言っていることは学術用語、専門用語の嵐で、それこそ文字通り「no idea at all(全然わかりましぇ~ん)」でしたね。
それから、英文学の授業。
これも、シェークスピアとかの古典英文学を中心に授業が展開していき、現代英語もままならぬ私にはもう完全お手上げの状態。
時には教授が私を指名したことすらも気づかなかったりして、クラスの失笑を買っていたのを覚えています。
それから変わったところで、ドラマ(演劇)のクラス。
これは女の子が多いんで楽しいという噂を信じて履修してみたんですが、だまされました。
確かに女の子は多いんだけど、いかんせん、授業が実践的すぎました。
週代わりで、演技監督とかセリフ書きとかを交代制で担当しなくてはならず、当たり前のことかもしれませんが、どの役回りも目一杯「発言」が求められるものばかり。
しかも、誰も私が日本人だからといって手加減などしてくれませんしね。これには、心底参りました。
事故以来、多少見こみが出てきたかなとうぬぼれていたスピーキング力が、いかにまだまだ全然駄目であるかということを骨身にしみてわからせてくれましたね。
それで、結局、履修科目を4教科ほどドロップ(放棄)してしまったんですね。
毎日があまりのストレスで、おおげさじゃなく、頭髪が真っ白になってきたくらいですから。
なんとかかんとか、1学期を終え、夏休みに入る頃に、両親から電話があり、「いいかげん進路のことを真剣に考える頃だ」と言われ、大学院にでも入学できるのなら話は別だが、後、何年かかって卒業できるか見通しの立たない今の留学生活は、その年いっぱいで切り上げるべきだと諭されたんですね。
確かに私ももう27歳になろうとしていましたね。
日本の景気もバブルが崩壊し、かなり悪化し始めていた頃でしたし。
そこで、私は、イチかバチかの覚悟で、学校の夏季授業は放棄して、大学院入学のため、図書館にこもり猛勉強を開始することにしたのです。
目標はTOEFLで大学院の要求する最低ラインの600点を取ること。
また、大学院入学にはTOEFLの他にGMATという英語と数学の試験も受けなくてはいけないのですが、そちらはTOEFLに比べれば簡単らしいのでTOEFLを取ってから準備する予定でした。
留学2年目の6月だったと思います。自分としては、9月に受験するTOEFLで目標点を取り、11月の大学院の申込みの締め切りまでに間に合わせるという計画を立てました。
しかし、600点というのは、当時の私には、相当な上達がないと到達できない、かなり不可能に近い得点だったんですね。
まさに「背水の陣」の覚悟で臨むほかありません。
そして、それが駄目だったら、その年限りで帰国すると決めたんですね。 さて、結果はどうだったかと言うと・・・・・・・